美術評論

2005年04月04日

ロココ調アンティークチェアセット修復完了!!

antique我が家のアンティークチェアセットの修復が遂に終了した3ヶ月に渡る大修理だったが、レストアさんの素晴らしい技術により、座ることが不可能に近かった200年前(?)の椅子が見事によみがえった
 
この椅子セットを購入したのは1991年の3月だったと思う。コーネル大学MBAコースであるジョンソンスクールに在籍中、アメリカ人のクラスメートとメキシコに旅行したときの事だ。ガイドブックで、メキシコシティの中心である広場にメキシコ政府運営の質屋があることを知った当時アンティークに傾倒していた私は、ここは政府運営であるから騙されることもないし、メキシコ価格で素晴らしい値打ちものに出会えるのではと期待を膨らませてでかけた期待通りに、店内は多くの宝物で埋まっていた
 
ちょうどその数ヶ月前にメトロポリタンでメキシコ展を見たばかりだった。そこで18、19世紀にメキシコがフィリピンとスペインとの三角貿易で繁栄し、アジア、ヨーロッパ両方の影響を受けた家具が制作されたことを知ったのだが、なんとそうした作風の家具を発見した我が家の居間にあるその家具は、ある人が見るとオリエンタル風だといい、ある人はヨーロッパ風という。それも道理で、黒のラッカーぬりのベースの上に塗られた朱色の模様は、漆を連想さえ、いかにも東洋風である。しかし、そこに貼り付けられた金属製のライオンの飾りと内部の赤ビロード張りからはヨーロッパが連想される。なんとも不思議なスタイルである。横長のサイドボードと縦長の直方体の収納家具の2点があったのだが、何とかサイドボードだけで我慢をした
 
さらに、金箔で3センチほどの縁取りをほどこされたボヘミアングラスのワイングラスを発見赤、青、緑など全6色のペアーでもともと12個合ったはずだが、そのときは既に9個しかなかった。こうした1点ものを購入するのがアンティーク収集の醍醐味だ。これだけの金をふんだんに使用したボヘミアンなど現在ではお目にかかれないすべて購入したが、価格はリーデルのの普及品と変わらなかった
 
そして最後に発見したのが、この18世紀ヨーロッパ製かと思われるロココ調のチェアセットだ歴史が趣味の私は、フランス王家出身者がメキシコに渡り、ハプスグルプ家出身のマクシミリアン同様悲劇的な最期を遂げたことは知っていたし、もしかしたらロココ調の家具にであえるかと期待はしていたが、そこでであったのはまさに、フランスやオーストリアの宮殿でよくみかける家具と、全く同じスタイルの椅子だった しかも3〜4人座れるソファ、肘掛付きの大きな椅子が2脚、肘掛なしの小さい椅子が6脚、そして物をおくために使うのか、背の高い小さいテーブルまでが揃っているこれだけのものがすべて揃っているなんてまさに夢のようであるこれも即座に購入を決めた
 
時はバブルの真っ最中この私の買い物の仕方を見ていたアメリカ人の友人が”話には聞いていたが日本人の買い物の仕方はクレイジーだ”と驚きまくっていたのは言うまでもない。
 
こうして手に入れた家具はすべて日本へ送った。しかしこのときにトラブルが起こった。相手は英語が話せず、こちらはスペイン語が話せない。知らないうちになんと船便ではなく、航空便で送られてしまったのだ!!その結果、送料は高くつくし、さらに届いた椅子のうち、いくつかは脚が壊れていたそのため長く使っていなかったこの椅子セットが、縁あってレストアさんと出会い、修復されることとなったなんと素晴らしいことだろう
 
このソファに座って、ワインを飲みながら、ハイドンを聴いて、パトリス・ルコントのリディキュールにあるように得意の辛口交じりの冗談を言い合える相手がいれば、気分は完全にマリア・テレジアやルイ15世時代
 
 

cornell5553 at 15:59|この記事のURLComments(2)TrackBack(0)

2005年03月24日

ジョルジュ・ド・ラ・トゥールとエミール・ガレーその類似性ー

ラ・トゥール先々週末にジョルジュ・ド・ラ・トゥール展、先週末にエミール・ガレ展に出かけた。二人の巨匠にいくつかの類似点があると気づいたのは、昨晩眠れぬ夜をすごした真夜中のことだ。
 
1.ロレーヌ地方出身、2.ドイツとフランスとの間の戦争に巻き込まれる、3.王室とのつながり、4.工房のリーダー、5.光との関連の5点だ。一つずつ解説していきたい。
 
まず、ロレーヌ地方出身についてだが、ジョルジュ・ド・ラ・トゥールは16世紀末に当時はフランスから独立を保っていたロレーヌ公国に生を受ける。その首都であったナンシーからほど近い都市である。一方ガレが生を受け、活躍したのがナンシーであるのはご存知であろう。
 
次にドイツとフランスとの間の戦争に巻き込まれることだが、これはこのロレーヌ地方とアルザス地方の宿命であった。ラ・トゥールの時代にはフランスと、後のドイツである神聖ローマ帝国との間で30年戦争が勃発し、帝国方についたロレーヌ公国はフランス王ルイ13世に征服される。一方のガレはナポレオン3世の下、これまた将来のドイツ帝国の中心となるプロシアとの普仏戦争に従軍している。敗戦の結果、ロレーヌ地方の一部はプロシアに併合され、ガラスの提供をうけていた工場があるマイゼンタールもプロシア領となった。
 
王室とのつながりについては、ラ・トゥールは当初ロレーヌ公爵アンリ2世の、後にルイ13世の国王付画家となる。ガレは父親の時代から皇帝陛下御用商人として作品をナポレオン3世に提供している。
 
親方として工房で描くという概念は、このラ・トゥールの生きた16世紀末から17世紀にかけては当たり前のことで、レンブラント、ルーベンスなども自身の作と工房の作との区別がつきにくくなっている。ガレも自身の工房を率い、制作にあたっていた。
 
最後にだが、ラ・トゥールはレンブラントと並び、光と暗闇の相反する二面性をを非常に効果的に使用した画家といえよう。ガレと言えば、そのガラス工芸がランプへと転用されていったことは周知のことであろう。
 
このようにある意味同じ土地に、同じように生きた、しかし300年の年を隔てて生きた二人の展覧会が、たまたま同じ時期にこの極東の島国で開催されているのも、なにかの巡り会わせだろうか?
 
ラ・トゥールの現存作品は世界で40点あまりだという。フェルメールなみに少ない。したがって今回の展覧会にも多くの模作がまざっているのが興味深かった。しかも1点ではなく、同じ構図の似たような作品がいくつも見られるのが彼の特徴だ。基本的には、光の使い方にやはり相当の技術が必要のようで、光が人工的に白くなりすぎて描かれているものに、模作が多かったように思えた。個人的にはルーブルに所蔵されている”ダイヤのエースを持ついかさま師”、ナントの”聖ヨセフの夢”(特にその天使の顔の光の扱い方)、”荒野の洗礼者ヨハネ”、バッキンガム宮殿所蔵の”手紙を読む聖ヒエロニムス”が素晴らしかった。メトの”女占い師”が一番見慣れた作品だが、残念ながら今回は展示されなかった。次にN.Y.C.に行くときの楽しみにとっておこう!!カラバッジオ派とも呼ばれているので、彼のファンの方にも必見の展覧会だ。(国立西洋美術館で5月29日まで)
 
エミール・ガレ展は、江戸東京博物館で4月3日まで開かれた後、大阪の国立国際美術館に4月12日から5月22日まで巡回する。今回の展覧会で一番の発見は、ガレが陶器も製造していたことだろう。今回展示された陶器のほとんどが松江北堀美術館所蔵作品であったのも驚きだった。ガレと言えばガラスと思い込んでいたため、新鮮な驚きだった。ジャポニズムの影響濃厚で、特に竹の形の植え込み鉢と、ざくろを模した花器が素晴らしかった。初期のガラス器はイスラム風や日本風で多くは面白みに欠けるが、その中では備前焼の獅子頭火入れを模したガラスの花器は秀逸だった。中期になるとおなじみのトンボなどの昆虫が多く現れてくる。エルミタージュ所蔵のトケイソウを模した壷が特に素晴らしかった。後期になるとガラスを削る一番有名なグラビュールという技法だけではなく、溶けたガラスを溶着したり、ガラスの層の間に別のガラスをはさみこんだりと、様々な超絶技巧のオンパレードとなってくる。多くの名品の中でも、デンマーク王室のコレクションは特に秀逸で、やはりキューレターの優秀さの現れがつぶさに感じられた。
 
こうした面での日本の立ち遅れは明治時代から続いているようで、ルーブル、メトロポリタン、ナショナルギャラリーなど各国が常設展だけでも多くの観光客を呼びこめる名作を数多くそろえているのに、日本にはそれに匹敵する美術館がないのはまことに嘆かわしいことだ。教育もまたしかりで、ゲルニカがピカソの作品だと受験で覚えさせられても、どうしてゲルニカが素晴らしいかについては教えない日本の現在の教育では文化人がそだつはずがない。
 
そうした話はさておき、この展覧会ではガレの歴史が、年代をおって楽しめるようになっている。アールヌーボー好きの日本人には特におすすめの、嫌いな人でも十分に楽しめる素晴らしい展覧会だと思う。
 

cornell5553 at 14:04|この記事のURLComments(15)TrackBack(4)