美術評論
2005年11月26日
北斎展ー作品は素晴らしいけど込みすぎですー
北斎展に2度でかけた。一度目は平日の昼間だったが、予想外の大混雑だった。余りの込み具合に、前期のみに出展される作品を中心にじっくり見て、残りは後ろから除いた程度だった。二度目は金曜の夜の時間を狙っていったのだが、相変わらず込んでいたさすがに前回よりはましだったが、一番前でじっくりに見るために並んでいたら500作品のうち最初の100作品は飛ばしたのに、3時間もかかってしまった。終わったときはもうくたくただった
北斎展は作品自体は素晴らしいのだが、運営その他に不満が残る
欧米の美術館ではこのように大掛かりで混雑が予想される展覧会では、予約制をとる。チケットショップなどで事前に何月何日の何時という券をとる、または当日美術館で予約をする。予約制により、館内の入場者数を制限している。日本でも是非このやり方を採用していただきたいそれから、陳列された作品がガラスケースから遠すぎて細部が見えないのにも不満が残った。もっと距離を短くしていただきたいものだ。近視の方ならなおさら見えないだろうガラスケースが指紋だらけで絵がよく見えないのにも、閉口した毎日ちゃんと磨いているのだろうか?それとも入場者のマナーの問題か
そうはいっても展覧会自体は、その不満を超えて余りあるほど素晴らしいものだった北斎は北斎漫画をはじめ19世紀後半の欧州絵画に影響を与えた作家として、他の浮世絵師とは一線を画す。彼についてはある程度は詳しいつもりだったが、今回の展覧会でまるで理解していなかったと反省させられた浮世絵師でこれほど画風を変え続けた人は他にもいるのだろうか?デッサン力、ユーモアのセンス、伝統にとらわれない新様式の確立など、本当に型にはめられない、改革者だったことが読み取れる信長好きの人は北斎がお気に入りなのではないだろうか
展覧会は年代順に構成されている。第1期が勝川派に属し勝川春朗と名乗った春朗期、第2期が俵屋宗理と名乗った宗理期。”夜鷹図”にはその叙情性に心を奪われた。”月下歩行美人図”の着物の質感も素晴らしい。たびたび登場する龍の表情も好みだ。第3期で読み本の世界になると、ついに北斎となる宗理期の美人像は涼しげで日本的で、余り個性がない。北斎期になると、力強く、肌も張りを帯び、独特の作風が形成される。”酔余美人図”の文机にもたれかかる女性の妖艶さ、その斜めに伸びたポーズは他に例がない。”江口の君図”は西行法師と白象に乗る普賢菩薩の化身の女性の読み合わせの図だが、表情、色彩、構図すべてが素晴らしい。“蛸図”の蛸のユーモラスさは北斎漫画を思わせる。ここまで紹介した絵はすべて版画ではなく、肉筆画である
第4期は戴斗と号した戴斗期。この時期は絵手本に熱中し、私の大好きな北斎漫画が登場する北斎の恐るべき観察力とデッサン力、ユーモアの精神が窺える。そこには人々の表情、仕草、その職業独特のポーズ、日常道具、生き物などあらゆるものが精妙に描かれている肉筆画にも傑作が多い。”列氏図”は絵なのだが、まるで一陣の風が吹いているのを見ているかのような錯覚にとらわれる”羅漢図”でも煙が立ち上るのが目に見えるようだ。とにかく、動きがある。羅漢の表情もなんともいえずよい扇に描かれたなまこは生きているようだし、イカはかわいらしい”雪中傘持ち美人図”の雪は盛り上がり、絵とは思えない個人的には最も好きな時代かもしれない
第5期は為一期。”冨ごく三十六景”、幽霊絵、武者絵など版画家としては最高の時期だろう冨ごく三十六景をこれだけ一時にみることができるのは、やはり楽しいその構図の素晴らしいさにただ、圧倒される3点ある”凱風快晴”を比較できるのも興味深かったも初版に近く、薄い色で刷られたギメ版やケルン版が東京国立博物館版の濃い色のものより、はるかに上品で、美しく見えた。旅をしていろいろな地域から富士山を眺めるだけでも楽しいだろうに、その地域のなかでも場所を選び、構図を考え、さらに絵にする楽しみはどれほどのものだったのだろう江戸時代は東京のどこからでも富士山が眺められたのかと思うと、非常にうらやましい動物を描いたものではギメの”鯛”、東京国立博物館の”群鶏図””ゆう亀図”が素晴らしかった。とくに亀図の3匹の亀の一番上の亀は、光の中を天に昇っていくような優美さをたたえていた
第6期の画狂老人期の多くの動物を描いた肉筆画は美しく、風雅がある。達人の域に達している。”月みる虎図”の虎は滑稽で、なんとも趣がある。”狐狸図”の狐狸も同様だ。絶筆に近いとされる”富士越龍図”はどっしりとした白い富士山と、黒煙の中を天に昇っていく龍が描かれている。なんともどっしりとして、落ち着きのある名作である。
朝早く、すいている時間に、2回か、3回に分けて訪れることをおすすめする。一度で見ようとすると、疲れといらいらで、北斎のよさを理解できずに終わるだろうから。
2005年11月05日
プーシキン美術館展ー美術館のよさはコレクター、キューレターで決まる!−
10月22日から12月18日まで上野の東京都美術館でプーシキン美術館展ーシチューキン・モロゾフ・コレクションーが開催されている。
プーシキンについて初めて知ったのは90年ごろ、MOMAで開催された”Matisse in Morocco”展で集められたほとんどの作品がエルミタージュとプーシキンからのものだった素晴らしい作品を多く持つ美術館という印象ができあがった。次の出会いは93年だったと思うが、やはりMOMAで開催されたマティスの大回顧展で。世界中の有名美術館から集められたマティスの数々の名品の中でも、素晴らしいと思えた作品のタイトルを見ると、多くの作品にエルミタージュかプーシキン所蔵とあった特に”ダンス”には衝撃を受けた”ダンス”はMOMAの収蔵品でいつも見慣れていたのだが、なぜ傑作のひとつといわれているかまるで分からなかったこの時初めて知ったのだが、実は”ダンス”は二つのバージョンがあり、プーシキンのものはMOMAと比較にならないほど色彩もよりフォーブ(野獣的で大胆)で、躍動感も素晴らしかった傑作はプーシキン所蔵の”ダンス”だったわけだそれ以来、いつかはプーシキン美術館を訪れたいと思い続け、現在に至っている。今回その作品の一部にでも出会えて幸せだ
今回の展覧会は年代順ではなく、印象派、後期印象派、象徴派、ナビ派、野獣派、キュビスムと美術界の変遷に沿っていて、美術史の勉強にもなる
冒頭に飾られているルノワールの”ムーラン・ド・ラ・ギャレットの庭で”は、筆で書くのではなく、置くことで光による微妙な色彩の変化を自然のままに忠実に描いた初期印象派の秀作続く”黒い服の娘たち”は人物が自然に溶け込んでしまうことをおさえるために輪郭が強調され、筆に動きが加わっている。後期のルノワールの数多くの傑作の女性像につながる秀作で、この展覧会でのベストの一つといえる作品この2作品に続くピサロ、シスレー、モネなどの作品は純粋な印象派といえる。
次に展示される作品群はシニャックなどの点描派。筆触分割の筆の大きさが点にまで小さくなり、より緻密に描かれているが、色はといえば、実際の色からかけ離れた色が使われ始める。
ゴーギャン2作品とゴッホ1作品が続く。添付のゴーギャンの”彼女の名はヴァイルマティといった”が恐らくこの展覧会のベストの作品だろう赤、茶、緑、青、黄といったあざやかな色はいくらタヒチといえども本当の色ではなく、ゴーギャンが創り出した人口の色だ。自然をそのまま忠実に再現する印象派とは正反対の、人間の内面性を描く象徴派であるゴーギャンのこの作品では、タヒチの少女に威厳と神性が与えられているルノワールが同じ少女を描いたら無邪気に微笑んでいただろう
続いて展示されるのは、ボナール、ヴュイヤールなどのナビ派。二人の作品はすべて素晴らしかった自然や人物を日常のままに描くと言う点では印象派に近いが、色使いは画家が造り上げた人口色と言う意味で象徴派と似通っている。
マティスの”金魚”になると色使いはまさに野獣派で、鮮やかなピンク、赤、緑といった色の洪水、そしてすべてが平面に描かれ、完全に作り物の世界になる印象派の絵は、同じ風景を写真に撮ってPCで操作すれば、造り上げることが可能だろう。それは自然に忠実だからだ。象徴派以降の絵画を、同様の手法で作成することは、不可能だろう
マティスの盟友、僕のお気に入りのアンドレ・ドラン(特にMOMAの”Bathers”)の”水差しのある窓辺の静物”は非常に興味深い作品だった。室内の静物がセザンヌ風の、無駄を排したキュビスムに通ずる作品、反対に屋外はルネッサンス絵画に見られる空、山、木が連なる風景で未来と過去の画風を一つの絵に凝縮している実験的な作品といえようこの後ブラック、ピカソのキュビスムの作品、そしてピカソの青の時代の”アルルカンと女友達”という秀作で展覧会は幕を閉じる(途中に版画が多く展示されていたが)。
この展覧会で感じたことは、プーシキン美術館が素晴らしい美術館なのは、やはり偉大なコレクターであったシチューキンとモロゾフに負うところが大きいということだ。前述のマティス展に出品されたエルミタージュ、プーシキン両美術館の作品はほとんどすべてが二人のコレクションということからも、二人の鑑識眼がいかに優れていたかが読み取れる。同じ時代に日本にも二人のようなコレクターがいたら、キューレターがいたら、上野の多くの美術館でも海外の美術館のように常設展で人が呼べただろうに子供のころからピカソ=ゲルニカ、モネ=睡蓮とか画家の名前のみを暗記するのではなく、画家の作品に触れて、画家を理解できる場があっただろうにと思うと本当に残念でならない。
たられば行ってても無駄なので、このへんにして。モスクワまで行けない人は是非上野まで足を運んでみてください、価値ありの展覧会です
2005年11月04日
京都の非公開文化財特別拝観ーライトアップも幻想的ー
京都では10月29日から11月7日まで普段見られない庭園、美術工芸品の特別公開が開催されている。紅葉時に合わせて行われるライトアップも青蓮院、高台寺などでは既に始まっている紅葉時には車の通行規制まで行われ、人でごっだがえす京都だが、この時期は非常にすいているし、天候もよく、特別公開に、ライトアップと合わせ、一番おすすめの旅行シーズンだと個人的には思っている
癒されるためにまず向かったのが東福寺京料理の高澤がこの時期にちょうど東福寺の塔頭に出店を出していたので、昼からおいしい松花堂弁当が食べれてラッキーだった特別公開の、日本最古の方丈と龍を模した庭園を有す龍吟庵は、期待通り素晴らしかった日のあたる、ほとんど誰もいない庭園を一人でぼ〜っと眺めていると、日々の喧騒も自ずと忘れられる。龍の頭を模した岩が気に入り、いろいろなアングルで写真をとるのも非常に楽しかった(画像サイズが大きすぎ、お見せできず残念)国宝の三門も内部が公開されていて天井画や十六羅漢を鑑賞できたが、カメラの持込ができず、三門からの絶景を写真に収められないのが残念だった紅葉で有名な通天橋を散策し、東福寺本体の方丈などを眺めていると、あっという間に時間が過ぎていく、至福のときだ
次に向かったのが智積院お目当ては堂本印象の襖絵”婦女喫茶”お寺には全く不似合いの、洋装と和装の二人の婦人が屋外でお茶を飲んでいる様子を、金、赤、緑を大胆に用いて描いた襖絵純和風のお寺と、どちらかというと洋画に近いこの襖絵とのミスマッチが楽しみだったこの襖絵を含め、印象の襖絵三点が、三部屋に隣りあわせで描かれている。真ん中の襖絵が墨タッチで描かれ、襖絵としては一番優れていた。しかし、”婦女喫茶”ともう一点は極彩色で描かれ、神妙な気持ちが突然パーと明るくなる感じを受け、強く印象に残るのはこちらのほうだった特に”婦女喫茶”の鮮烈さには圧倒された将来、もし和室を持つようなことがあれば、こうした楽しい気分にさせてくれる襖絵が欲しいと感じさせられた。この屋外のテラスで二人が飲んでいるのがコーヒー、紅茶ではなく抹茶というのも面白かった格式をすててもっと自由にお茶を楽しめと語りかけてくるようで、非常に共感できた。素晴らしい襖絵でした、これを見るだけでもこの時期京都に来た意味がありました
智積院の寺暦を読んで驚いた、何と毎年厄除けや祈願に訪れる川崎大師の属する真言宗智山派の総本山だったのだ(川崎大師は大本山)ジェイ・リスティングをスタートした時は、大本山川崎大師にお参りした。今回は偶然にも総本山にお参りできたのだから、今度入る会社はジェイ・リスティング以上の成功を収めるかと思うとわくわくしてきたもうひとつ偶然といえば、ルックスマートをやめる際に部下二人と行った”天界”という料理屋に今回行ってきた。その後京都を訪れる機会がいくどかあったが、天界にはなぜか行かなかった。ジェイ・リスティングをやめたときにまた訪れることになったのも、何か不思議な感じがした
”天界”の料理は突き出し(甘い生ゆば、きのこ、いかとゆずね)、いわし甘露煮、干物3種の焼き物、煮物、揚げ麩、大根と豚肉鍋、ねぎご飯、山芋アイスなど10品すべて申し分なかった。島根の酒”天界”も絶品だ。料理もそうだが、築70年の旅館を改装したという個室の調度、明かりなど他の料理屋では味わえない独特の雰囲気がある。値段も含め一押しだ
”天界”は高台寺から歩いて5分。食事の前に立ち寄った高台寺のライトアップの素晴らしさは言葉では言い表せない音楽と照明のショーはミスマッチで陳腐だったが、圓徳院の北庭と偃月池のライトアップは幻想的で、その美しさに時の経つのを忘れるほどだ特にライトアップされた偃月池は池面が鏡のようになり、木々がまるで池の中に立っているように映し出される。”きれ〜い”、”鏡みたい”という声の他に、”引き込まれそ〜う”という声も多かったのも頷ける。この世のものとは思えない、まさに天界の美しさだった
暫しの休息の間の最高の一日でした
2005年09月21日
アジアのキュビスムーアジア近代絵画を見られる貴重な体験ー
竹橋の東京国立近代美術館で8月9日から10月2日までアジアのキュビスムが開催されている。セザンヌに始まり、ブラック、ピカソにより発展を遂げたキュービズムがアジアの美術界にいかに影響を与えたかという貴重な展覧会だ
20世紀初頭、ピカソとブラックが共同生活をし、同じ主題について描いた作品を並べるという興味深い展覧会を1990年初頭MOMAで見る機会があった。MOMA、グッゲンハイム、ポンピドー、どこでも見られるキュービズムだが、キュビズムを冠した展覧会を見るのはそれ以来かもしれない。仮面などアフリカ美術にセザンヌと同じぐらい影響を受けたこのヨーロッパ人の二人の興した運動が、アジアにまで伝播するとは興味深い。ただし、アジアに伝播したのは日本、中国を除くと1900−1910年代に遅れること数十年たってから、植民地からの独立後だそうだ。アフリカ文化はアジアにはヨーロッパと比べるとなじみづらいのかも知れない。
日本や中国の画家がヨーロッパのキュービズムを忠実に再現しているのに対し、東南アジア、南アジア、韓国の作家は独自の様式を確立しているのが興味深かった。例えばスリランカのキートやインドのサバワラは直線で分割する本来のキュービズムに対し、曲線を多用している、アラベスク模様の影響だそうだ。韓国のキム・スは透明キュビズムと呼ばれる対象のうえに半透明な幾何学的な模様をかぶせる方式を作り出した。いずれも素晴らしい作家に思えた。マレーシアのチィア・ユーチェン、韓国のキム・ギチャン、キム・ファンキなどは東洋画の伝統である極端に横長の構図と平面性を取り入れている。
ほかにもマレーシア、シンガポール、インドネシアの画家たちの風土を現す大胆な色使いの作品に心を惹かれた。添付の作品はインドネシアのアフマッド・サダリのセントラル・パーク。
この展覧会には日本で著名な画家の作品はひとつもない(東郷と1点づつ飾られたピカソ、ブラックを除くと)。そのためか、非常にすいていてゆっくり鑑賞できた。アジアを旅行するとき以外にアジアの絵画を見るチャンスもあまりないし、せっかっくアジアに行っても地元の美術を鑑賞する人は非常に少ないだろう。リゾート地としてのアジアではない、アジアのほかの面がこの展覧会で見えてくるかもしれない。
アジアのキュビスムーアジア近代絵画を見られる貴重な体験ー
竹橋の東京国立近代美術館で8月9日から10月2日までアジアのキュビスムが開催されている。セザンヌに始まり、ブラック、ピカソにより発展を遂げたキュービズムがアジアの美術界にいかに影響を与えたかという貴重な展覧会だ
20世紀初頭、ピカソとブラックが共同生活をし、同じ主題について描いた作品を並べるという興味深い展覧会を1990年初頭MOMAで見る機会があった。MOMA、グッゲンハイム、ポンピドー、どこでも見られるキュービズムだが、キュビズムを冠した展覧会を見るのはそれ以来かもしれない。仮面などアフリカ美術にセザンヌと同じぐらい影響を受けたこのヨーロッパ人の二人の興した運動が、アジアにまで伝播するとは興味深い。ただし、アジアに伝播したのは日本、中国を除くと1900−1910年代に遅れること数十年たってから、植民地からの独立後だそうだ。アフリカ文化はアジアにはヨーロッパと比べるとなじみづらいのかも知れない。
日本や中国の画家がヨーロッパのキュービズムを忠実に再現しているのに対し、東南アジア、南アジア、韓国の作家は独自の様式を確立しているのが興味深かった。例えばスリランカのキートやインドのサバワラは直線で分割する本来のキュービズムに対し、曲線を多用している、アラベスク模様の影響だそうだ。韓国のキム・スは透明キュビズムと呼ばれる対象のうえに半透明な幾何学的な模様をかぶせる方式を作り出した。いずれも素晴らしい作家に思えた。マレーシアのチィア・ユーチェン、韓国のキム・ギチャン、キム・ファンキなどは東洋画の伝統である極端に横長の構図と平面性を取り入れている。
ほかにもマレーシア、シンガポール、インドネシアの画家たちの風土を現す大胆な色使いの作品に心を惹かれた。添付の作品はインドネシアのアフマッド・サダリのセントラル・パーク。
この展覧会には日本で著名な画家の作品はひとつもない(東郷と1点づつ飾られたピカソ、ブラックを除くと)。そのためか、非常にすいていてゆっくり鑑賞できた。アジアを旅行するとき以外にアジアの絵画を見るチャンスもあまりないし、せっかっくアジアに行っても地元の美術を鑑賞する人は非常に少ないだろう。リゾート地としてのアジアではない、アジアのほかの面がこの展覧会で見えてくるかもしれない。
2005年08月07日
写真家ブルース・ウェーバー −ファッション写真だけどアートー
ブルータス最新号のテーマはブルース・ウェーバー僕のもっとも尊敬するフォトグラファー、写真集も5,6冊は持っている。一人の写真家を特集しちゃうんだからブルータスは流石だ
ブルース・ウェーバーの写真の特徴は1.モノクロ、2.カルバン・クラインのキャンペーンシリーズで有名になるなど、ファッション・フォトグラフィーが基本、3.セレブのポートレイトも多いが、無名の人のポートレイトも多い、4.女性よりも男性のポートレイトに秀作が多い、5.ファッション写真だがアート性があり、他の写真家と差別化される、6.犬の写真も多い、といったところだろうか?
そのかっこよすぎる作品からメイプルソープのような細身で、おしゃれで、かっこよい人物を勝手にを想像していたのだが、ブルースは写真のような人のいいおじさんって感じ最初にブルースの写真を見たときはその作品とのギャップに相当驚いた
最初に購入したブルースの写真集”オ・リオ・デ・ジャネイロ”はまさに衝撃的だったリオを舞台に繰り広げられる彼独自の世界。”ああ、なるほど”とあるとき気づいたのだが、PRIDEで有名になったグレイシー一族の写真が多く収められている女性がダンスをするように男性に投げを打っているシーン、ヒクソンが赤ん坊を宙に放り投げ、もう一人が受け止めようとしているシーンなど、現代では考えられないシーンで一杯だ一番好きなのは見開きの、投げられたボールをジャンプして口でキャッチする犬の写真、その躍動感は実際に見ていただかないと実感できないだろうほとんどの写真がモノクロだが、赤のカラーフィルターを装着したような、赤黒写真とでもいうべきものもいくつか収められ、それがものすごくかっこよく、その頃、自分のコンタックスに赤フィルターをつけて撮影したりしたものだ
ブルースの写真集では男性ポートレイトに秀作が多いのだが、彼には悪いが当然女性の写真の方が好きだ。他には”ハウス・イズ・ナット・ア・ホーム”のインテリアや犬の写真など、良き時代のアメリカを思い起こしてくれる叙情的な写真がすばらしいと思う
コーネルに留学していた頃、その後の数年間は相当アートインクラインドしていたので、日本でも海外でも写真集をよく購入していた。ブルースの写真集とかものすごーく重いんだけど、出張やバケーションのたびに相当買い込んでいた。それから10年、今は写真集を買うこともほとんどなくなってしまったというわけで、1997年以降の作品は残念ながら1冊ももっていない今回、ブルータスを見て、驚いた。14冊も出ているんだ最近またアートへの興味もわいてきたし、写真を撮りたいという欲求も少しは出てきたので(写真はいいかげんにとると、構図がよくてもまったく心を打たない写真になってしまうので、情熱が必要)ブルースの写真集購入してみます問題は売っているかだけど(少なくとも昔はすぐ売り切れた、ブルータスによると”オ・リオ・デ・ジャネイロ”の保存がよいものは$2000もするらしい)
ブルータスによると、9月からシネマ・ライズでブルースの新作映画が公開されるということだ。”トゥルーへの手紙”というその映画は愛犬トゥルーに宛てた手紙という形式のドキュメンタリーらしい。写真好きな人も、愛犬家の方も是非どうぞ、きっとおすすめです9月半ばには表参道の旧紀伊国屋跡地で1ヶ月限定のショップもオープン、写真展も開かれるそうです、こっちはマストかも
2005年08月04日
小林古径展ー印象派に劣らぬ日本の美ー
小林古径展は予想以上に素晴らしく、その画風の広がりに感銘を受けた。
古径の作風はいくつかの時代に分類される。まず初期の明治時代後半には歴史画を描いている。それ自体は他の画家と比べて特に優れているという感も受けなかったが、それよりもスケッチに心を惹かれた。この時代のスケッチブックが芸大に残されていて、展示されていたのだが、そこに描かれた花、猫、鳥、虫、鼠や人物などの精緻なスケッチから、古径の基礎がこの時代に築かれたことが分かる。
こうした写生や模写をもとにした高い技術の歴史画に、大正ロマンの息吹が加わったのが写真の”極楽井”である。その華やかさはそれ以前の毅然とした画風とは明らかに一線を画している。絹の裏側から金箔を貼る伝統の裏箔技法により、少女たちの衣装の華やかさは増幅されている。この作品以外でも、”竹取物語”の六連作の華やかさは、見るものを平安の時代の優美さ、雅やかさの世界へ誘う。”木蓮”や”芥子”も実物よりも遥かに雅やかで”ほー”とさせられる。圧巻は”機織”で、ヨーロッパ留学の模写の成果らしいが、華やかさの上に機や女性の着物に非常に細い、繊細な線が用いられていて圧倒される。
昭和になると古径の興味は生き物に向けられる。二曲一双の琳派風の”鶴と七面鳥”の鶴の躍動感とそれに対する七面鳥の堂々さは見事というほかはない。”孔雀”の荘厳さは動物ではなく、仏が変化したかのようである。”猫”の顔つきは猫のそれではなく人間のそれのようで、堂々としている。
古径の描く草木、花々には独特の質感がある。柿を多く描いているが、木々にたわわに実った柿の実も、鉢に入った柿の実も、すべてみずみずしい。二曲一双の”唐蜀黍”はやはり琳派風で、左は動的で、葉の色が濃く、右は静的で薄く、対照的に描かれている。素晴らしい作品だ。
人を描いた作品では、切手にもなった”髪”は当然のように人目を惹く。細い線を重ね合わせて描かれた髪の毛の質感が素晴らしく、”機織”同様ヨーロッパ留学の模写の成果が結実しているといえよう。”琴”の少女の着物の美しさもこうした成果の一つだろう。その表情や指使いなど、印象派の巨匠にもひけをとらない。晩年の作品”楊貴妃”は、能面に映された悲しみの表情と、その衣装の華やかさとのギャップが心を打つ。
心惹かれる作品がこんなに多い展覧会も珍しい。ほとんどが秀作である。私が鑑賞した7月17日は東京展の会期の最終日前日であったが、出品目録によると、この後期に見られたのは全体の半分強に過ぎない。
この展覧会は7月26日から9月4日まで京都国立近代美術館で開催中である。残りの半分を見れるなら、是非とも夏の暑い京都に行きたいものだ。
2005年06月24日
ハンス・アルプ展ー心地よいバランスー
日本におけるドイツ2005/2006の一環として、川村記念美術館でハンス・アルプ展が開催されている(4月5日ー6月26日、この後岡崎、群馬に巡回予定)。ハンス・アルプは、常に独仏の争いの場となるアルザス地方でドイツ人、フランス人の混血として生まれたバイリンガリストである。活動の場はドイツ、フランス、スイスにまたがっている。パリでマティス、シニャックと展覧会を開いたり、ミュンヘンでカンディンスキー、クレー、マルクと共に”青騎士”に参加、その後ケルンでエルンストと知り合い、パリでモディリアーニ、ピカソと出会うなど、点描派、野獣派、キュービスト、ダダイストなどあらゆるタイプの画家と交流していたのが分かる。ダリ、タンギーなどシュルレアリストとも後年は活動を共にしている。
こうした華麗な経歴を持つアルプが、一番情熱を注いでいたのがブロンズ彫刻である。今回展示されている1960年代の作品群はすべて、”腕のようなもの、胸のようなもの、頭のようなものなど”で構成され、人間の形をなしてはいないが、すべてが美しい。その曲線の単純化は究極となり、美を形成する。
かつてアート・マネージメントを学ぶため、ロンドンに短期留学時代しが、その際、ロイヤル・カレッジ・オブ・アート出身の画家から多くを学んだ。テート・ギャラリーにあるマティスの女性像は3体あるが、制作年代はそれぞれ20年ぐらい離れていたと思う。最初の作品ではきっちり構成されていた女性像が、最後の作品では、できるかぎり単純化された曲線による”ヘタウマ”作品になっていた。ぱっと見では一番素晴らしくみえる、きっちりつくりこまれた作品が、実は一番昔の稚拙な作品で、画家が行き着いたのが、究極に単純化された最後の作品だという説明を受け、衝撃を受けた。このアルプの60年代の作品も、同様である。添付の写真の作品”デメテルの人形”も非常に美しい。このカーブの始まる位置が、そしてカーブの大きさが少し違うだけで、作品は陳腐化するだろう。究極のバランス感覚である。
ブロンズ以外では木やジュラルミンも用いられている。ジュラルミン作品”対照をなす柱”は同じ柱をさかさまに立てたものを並べてあるのだが、そのバランス感覚の見事さは言葉では言い表せない。
展覧会の最後は30〜50年代の作品群で、テーマは”配置と構成”。無秩序に並べられたかのような造形には法則がある。偶然におかれた紙片を、もっとも心地よい位置に並べ替えている。この造形の形、大きさ、位置が少しでも狂えば、この心地よさは失われ、何故だか分からない不愉快感が生まれることだろう。
やはりロンドン時代に教えられたのだが、何も考えずに線を引き、赤、青、黄色のブロックをおいたような絵を描くピエ・モンドリアンは、やはり究極のバランス感覚の持ち主だったそうだ。モンドリアンの絵なら真似できるなど大間違いだそうだ。このアルプのオブジェの心地よさも、モンドリアンの絵画同様、究極のバランス感覚があって初めて可能となる。
アルプの作品は欧米の美術館ではよく見かけるが、久しぶりに彼の作品を堪能でき、大満足だった。川村美術館の常設展も素晴らしく、特にジョゼフ・コーネルの作品群、マーク・ロスコーの部屋はわざわざ訪れる価値がある。そして、シャガールの”ダビデ王の夢”とかいう名前だったと思うが、文句なしの傑作だ。
美術館のまわりには池があり、白鳥も見られるし、遊歩道では森林浴もできる。東京から僅か1時間のドライブで着いてしまう。出かけたのが遅く、あやめ鑑賞は残念ながらできなかったが、また是非とも訪れてみたい。