映画評論

2005年04月12日

映画”サイドウェイ”−ピノ・ノアールのような味わいー

sidewey”サイドウェイ”は予想通り素晴らしい作品だった低予算の作品であるのに、ゴールデングローブ賞、ニューヨーク、ロサンゼルス、ボストン、シカゴなど多くの都市の映画批評家協会賞の作品賞をそうなめにした鑑賞後になぜか納得できたこの作品はアメリカ人に愛されるすべてを備えた映画といえるだろうアメリカ人に愛されるべき映画の特徴を洗い出し、それをすべて計算ずくで実現させたと考えさせられるほどに、すべての成功要素が詰まっている”アバウト・シュミット”の監督アレクサンダー・ペインは現代アメリカ映画界で最高の監督の一人だろう

1.スーパーマンのようなヒーローでなく、多くの人が感情移入できる、さえない、人生の落伍者が主人公である点、2.いい奴だけど駄目な主人公と、悪い奴だけどもてる親友との誰もがうらやむ固い友情、3.ネガティブ思考の、頼りない主人公が、ポジティブ思考、力強い人物へと変わっていく点、4.美しく、知的なヒロインの存在と、5.そのヒロインとわれらのさえないヒーローとのハッピーエンド、6.アメリカ人にとって最も欠かせない笑いはたっぷり、7.3人の主要な登場人物が、その性格設定も、役者の演技も、すべて素晴らしいこれ以上に何が必要だろう

まず主人公のマイルスだが、スーパーマンどころか、これほど情けない主人公も珍しい2年前に分かれた妻への未練が捨てがたく、彼女の再婚話を旅の伴侶の親友ジャックに告げられると、ショックで錯乱し、ワインをラッパ飲みしながら坂を駆け下りるシーンは、本当におかしくて、いつまでも、いつまでも笑える名シーンその夜の、ジャックがアレンジしてくれた、ずっと以前から気に入っている、ワインに造詣の深い、美しい、マヤとの4人での飲み会しかも彼女はマイルスに気があり、離婚したことまで分かっている離婚後初めての、素晴らしい出会いのチャンスだ(持つべきものは友だ)この最中にも目の前の美しいマヤのことよりも別れた妻のことが気にかかり、食事中席を立つと妻に電話をかけ、おめでとうというどころか、どんどん絡んでいき、墓穴を掘っていく!!その後席に戻るとワインをがぶ飲みし、むせ返る酔っ払いのマイルス本当に情けなくて、目をおおいたくなるシーンだその後のマヤの友人ステファニー家での2次会で、バルコニーでワイン論を語り合う二人”ピノ・ノワールは扱いが難しい、しかしうまく扱えば最高なものが生まれる、だからピノが好きだ”と語るマイルス。”ワインは生きていて、日ごとに熟成してピークを迎えるが、その後は徐々に下り坂になる、その味わいが人生と同じで、ワインに惹かれた”と、マイルスの腕に手をかけながら語るマヤ私のようなワイン好きにとっては、キスをして、その後プロポーズしたくなるような最高のラブシーンだこんな相手にめぐり合い、こんな雰囲気になったならところがマイルスは、キスどころか、”どの品種か忘れたが、その品種も捨てがたい”とか語りだす完全なトホホ状態で、アメリカの映画館ならみんながオーと叫んで頭を抱えているのは間違いないそのほかにも自分の小説の出版が駄目になったことを知り、ワイナリーでワインをがぶ飲みし、大暴れをして、追い出されるシーンなど、情けないシーンには事欠かない

親友のジャックはかつては人気のTVシリーズにも出演していた、典型的な軟派男、というか獣に近い。アメリカ人にはいつも”ホーニー”と叫んでいるこうした男がたまにいる。頭の中はSEXしかない。だけど憎めないキャラというところか?この超ポジティブ、マイペースの軟派男と、超ネガティブ、駄目男がなぜ親友なのかは最後のほうで分かる。間男をしたところを夫に見つかり、裸で逃げ帰ってきたジャックの、間男をした家に忘れた身分証明書入りの財布をとってきてくれという無謀な要求に、見事に応えるマイルス二人のかけがえのない友情が、笑いと共に読み取れる感動的なシーンだ

ヒロインのマヤの美しさ、聡明さ、強さはアメリカ人の理想だろう大学教授夫人という地位を捨て、しがない英語教師のマイルスを好きになるマヤ。夫と別れた理由が、大きいワインセラーを持ち、うんちくを語る夫が偽者だと気づいたからだという。金にあかせて高いワインを買い求め、高い頭脳でウンチクを語る偽者のワイン好きは日本にも多いだろう。ブランドにこだわらず、本当に味を分かっているワイン好きは少ない。マヤのその言葉に、私は一瞬で恋をした、彼女は本物だマイルスはお金はないが、ワインにかけては本物だ。ワインに奥深さを見出し、ワインに人生を委ねようというマヤがマイルスを好きになるのは、理論的にはおかしくはない。

しかし、残念ながら、現実にはこうしたことはまずありえないだろうワインを趣味にとどめず、ワインに人生をかける人は少ないだろう。また、情けないマイルスを選び、ワインに関しては偽者でも、成功者である、きれものであろう大学教授を捨てるような人物もなかなかいないだろう。アレクサンダー・ペイン監督も大のワイン好きだということだから、非常によく理解できるが、マヤがマイルスを愛するのは、ワインラヴァーにとっての、そうなってほしいというフェアリー・テールに他ならない

マヤのような女性と出会えていたら、私も独身生活に別れを告げていただろうに


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2005年04月05日

映画”アビエイター”ー人生をかけるものを見つけられるか?−

あびえいたアビエイターは、一言で表すと、”一つのことに人生をかけた一人の男の物語”といえるだろうかハワード・ヒューズにとってはそれが”空への、飛行機による挑戦”だったのだろうハワード・ヒューズは実業家、映画監督、プレイボーイとしても著名であるから、もちろん一言で言い表せるような単純な人間ではない。しかし、この映画ではヒューズの空への情熱のみに焦点を当てているので、非常に分かりやすく、誰もが楽しめる映画となっている。”ラスト・サムライ”も手がけた脚本家が非常に優秀だと感じた
 
一度きりの人生で、何か生涯をかけて追い求めるものを見つけられた人は、非常に幸せであろうヒューズが空への挑戦を成し遂げることができたのは、もちろん父から莫大な遺産を引き継いだこともあるだろうが、それ以上に、空への情熱が並大抵ではないことのほうが遥かに大きいだろう試作品の、飛行実績のまるでない、世界ではじめてのタイプの飛行機の試験飛行を自分で行うことなど、ただのお坊ちゃまにできるはずなどない
 
ヒューズは新型機の作成に全く妥協せず、莫大な時間と資金をかけ完成させると、自ら乗り込み、世界最速記録を打ち立てるその成功に満足せず、次にはリンドバーグの世界一周記録に挑戦し、これを破ってしまう史実では1年ずれているのでどうも嘘らしいが、映画では、この記録的飛行中に無線で指示を出し、次の夢である航空産業への進出まで果たしてしまうーTWAの買収であるーその空への情熱は誰にも止められない

この映画で観客がヒューズに引き付けられるのは、やはりこのヒューズの情熱がまぎれもない本物だからだろう。多くのハリウッド女優と浮名を流し、冒険家としても、実業家としても成功しているヒューズは挑戦をやめようとしない。なぜその成功によるステイタスに満足しないかといえば、それは、空への情熱が止まらないという一言につきるだろう普通の人である観客には真似ができないから、それだけ引き付けられるのだろう。特に開国以来フロンティア精神にあふれるアメリカ人がヒューズを英雄視するのは当然だろう

TWAの社運をかけた双発機の試験飛行でビバリーヒルズに墜落、九死に一生を得るが、心臓が左から右に移ってしまうほどの大怪我を負う その逆境の中で、精神病も誘発した状況で、パンナムと組んだ上院議員から、TWAを売却したら汚職を公開しないという誘いをかけられれば、それに乗らない人物など現代のこの日本に存在するのだろうか?そうした状況でも彼は屈せず、法廷で闘い、見事に勝利を収める。そこにあるのは、莫大な私財を投じてまで、ビジネス上まるで意味のなくなった巨大な飛行機を飛ばしたいという情熱だけである。そこにアメリカ国民も共感したから勝てたのである多くの見せ場のあるこの映画で、その巨大な飛行機の離陸シーンと並んで最も感動的なシーンが、この法廷での勝利のシーンだろう

数あるヒューズの恋人の中でも、強く、個性があり、知的なキャサリーン・ヘップバーンとの恋に焦点があてられている。ケイト・ブランシェットの演技が素晴らしい二人が惹かれあうきっかけとなる真夜中の空中飛行デートは、息を呑むほど美しい。映画で最も好きなシーンだ精神的に双子のような彼女との別れで、ヒューズは徐々に精神を壊していくそして、精神的にずたずたになったヒューズを立ち直らせるのが、エヴァ・ガードナー。彼女は母親的な描かれ方をしている。二人が選ばれたのは、この二つのタイプがアメリカ人の理想の女性像であるからだろう。このヒューズの恋愛もこの映画の楽しみの一つだ

しかし、レオナルド・ディカプリオがオスカーをとれなかったのは本当に残念だ彼はヒューズの情熱と狂気を見事に演じきっている。最初に彼に出会ったのは”ギルバート・グレイプ”だったが、レオの演技は素晴らしく、印象にいつまでも残っていた。マーティン・スコセッシのヒーローはデ・ニーロからダニエル・デイ・ルイスへ移り、”ギャング・オブ・ニューヨーク”でレオへと移っているスコセッシに認められるということはオスカーをとれるということに他ならない。この二人の新コンビの次回作が今から楽しみであり、このワクワク感は、デ・ニーロ=スコセッシの次回作を待っていたときの気持ちと全く変わらないこの二人のコンビのレベルは少なくとも私の中ではそこまで来ているのだが

 

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2005年03月18日

映画”舞台よりすてきな生活”ーL.A.のイギリス人ー

舞台よりすてきな生活ケネス・ブラナーの新作は、スランプに陥った子供嫌いのイギリス人の戯曲家が、よりによって子供との交流により新しいスタイルを見つけ、スランプを克服するというハートフル・コメディ自らも脚本を書き、舞台に長く関わってきた彼にまさにぴったりの役子供嫌いのピーターが、ロビン・ライト・ペン演じる子供を欲しい妻の策略で、脚の不自由な向かいに越してきた少女エイミーを紹介される。最初は会うのも嫌がっていたピーターが、戯曲に必要な子供の気持ちを理解するために彼女に近づく。そうしたよこしまな心で近づいたピーターだったが、次第にエイミー(親が別居していて父親がいない)と本当の親子のような交流を深めていくその中で起こるいろいろな事件をエピソードとして進行する、本当に愛すべき、心温まるコメディ映画

この映画で笑えるのは、やはりイギリス人であるピーターが、L.A.になじめずに悪戦苦闘するところ煙草を自宅で吸ってて、家政婦に叱られるシーンなど”なぜ自分の家で煙草を吸えないんだ”というイギリス人のアメリカ人への風刺が伝わってくる愛犬家が多いアメリカで、ほえてうるさい隣人の犬を、”うるさくて眠れないから殺してやる”といったジョークは受け入れられず、それどころか殺された犬の”殺犬者”として投獄までされてしまうピッキーなピーターにとって、隣人付き合いの大切なアメリカでの生活は苦痛に近い、特に子供との付き合いは

こうしたアメリカで生きていく上での問題点も、エイミーとの交流で克服されていく。子供のような純粋な心を持ったピーターは、子供であるエイミーにより大人になっていくのが微笑ましい

L.A.に移住したイギリス人の芸術家としてはデビット・ホックニーが有名だ。風刺好きで、すぐにイギリスと比較して”アメリカは変だ”と言い張る、典型的なイギリスの知識階級であるピーターのような人物が、文句をいいながらも西海岸を目指すのは、やはりそれだけ気候に惹かれるということだろうかホックニーの絵もイギリス時代は非常に暗く、重かったが、L.A.に移住後は、ご存知のように非常に明るくなった

イギリス文化とアメリカ文化の違いを知る上でも、おすすめの一本だ


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2005年03月09日

映画”アレキサンダー”−なぜアメリカで不評だったかー

アレキサンダー”アレキサンダー”がアメリカで不評だったという記事をぴあで読んだ。アメリカ人が憧れる英雄アレキサンダー、それはオリエンタル(東洋)世界=ペルシャ帝国に何世紀に渡り苦しめられたオクシデンタル(西洋)世界=ギリシャを、その支配から開放し、オリエンタル世界を征服した英雄としてのアレキサンダーであるギリシャ人は自分たちを”ヘレネイ”、その他の人を”バーバリアン”と呼んだ。ギリシャが世界の中心で、ギリシャ人のみが知識・教養のある文化人で、その他の人はすべて野蛮人だという発想である。現在の白人至上主義、西洋が東洋の上にあるという考え方に通じる。自分たちと同じ西洋人=白人であるギリシャ人(マケドニア人はギリシャ人の一派である)が東洋人=非白人であるペルシア人を打ち破る姿に拍手喝采するわけである。しかも当時のペルシャ帝国は現在のイラン・イラクが中心であった。(ペルシャ人はイラン人であり、首都のペルセポリスは現在のイラン、映画で中心都市として描かれているバビロンがあるバビロニアは現在のイラクである)イラクと戦い、イランを悪の枢軸と呼ぶブッシュ政権下のアメリカ人が、かつてのイラン・イラクであるペルシャ帝国の支配から脱し、打ち破り、滅ぼす英雄としてのアレキサンダーを求めるのは、当然の流れだろう
 
しかし、ここで描かれるアレキサンダーはどうだ?征服したペルシャ帝国の人民を虐殺するどころか、自国の軍隊に組み入れ、ギリシャ風の都市”アレキサンドリア”を征服した各地に建設し、マケドニア人と現地人との融合を図るコスモポリタンとして描かれている。そして、遂には、”マケドニア人を妻としないとマケドニア女性に対する侮辱だ”といさめる重臣たちの意見を無視し、山岳民族の王女と結婚してしまう現代のアメリカに置き換えれば、ブッシュが独身だとすると、自らイラクに赴き、イラク人と結婚して、イラク人との融和をはかるということになってしまうブッシュ政権下の保守的なアメリカ人が目を背けたくなるのも想像に難くないぴあでは、アレキサンダーをホモセクシュアルに描いたのが英雄というイメージから外れたといった論調だったが、それは上記の理由に比べるとたいした理由ではない。
 
もう一つ受け入れられなかった大きな理由は、アレキサンダーが独裁者として描かれている点だろう。ペルシャ帝国を征服したマケドニア・ギリシャ連合軍の将軍・兵士が望んだのは、戦利品と共に故郷へ凱旋帰国することだった彼らの意見をすべて無視し、アレキサンダーはインドへとさらに東征を続けるギリシャ社会はご存知のように直接民主制を取り入れていた共和国だった。マケドニアは王国だったが、それでも重要なことは王を含めた重臣による合議制で決められていた。この民主主義であるという点が、アメリカ人が古代ギリシャと自分たちを重ね合わせられるという意味で、きわめて重要である。独裁者はサダム・フセインにしろ、古くはヒトラーにしろ、アメリカ人が最も忌み嫌う対象である。現在のアメリカ合衆国大統領のように、民主主義の枠内での、強力なリーダーとして描かれるべきアレクサンダーが、敵であるフセインのように描かれたのでは、アレキサンダーに感情移入などできようはずがない
 
映画の結末としては、アレキサンダーは毒殺されることになっている。史実では熱病とされているが、私も毒殺説が正しいと以前から考えていた。ペルシャ、インドを経てようやくバビロンに帰ってきて、故郷に帰れるのももう少しだという段になり、今度はアラビア半島を回り、地中海を西に進み、征服の旅を続けると分かったとき、あなたがアレキサンダー配下の将軍だったらどうするだろう?これではいくら命があっても足りやしない、今故郷へ帰れば英雄だが、西へ進めば死ぬ確率も高い。さらに先に述べたように、当時は王は貴族の中の第一人者にすぎず、ルイ14世時代の絶対君主制と異なり、忠誠心など絶大ではない。答えは自ずと明らかであろう、自分が死ぬか、アレキサンダーが死ぬかの二つに一つなのだから
 
さらにこの映画が問題視されるのは、オリバー・ストーン監督が筋金入りの反戦主義者だからだ。”プラトーン”、”7月4日に生まれて”など過去にも反戦映画を発表してきたストーン監督が描いたとなると、この映画はオリエンタル世界とオクシデンタル世界との融合を示唆してると解釈できよう。ブッシュ政権の対オリエンタル(アフガニスタン、イラン、イラク)強攻策への明確な否定に他ならない。
 
固い話ばかり書いてきたが、そうした政治問題など抜きにして鑑賞しても、”アレキサンダー”は十分楽しめる娯楽大作である。ガウガメラ、タクシラの戦闘シーンは圧巻で、ここ数年公開された映画の戦闘シーンとしては、間違いなく五本の指に入るだろう。復元されたバビロンのセットはゴージャスそのもので、もしこんな都市が現在存在したら、間違いなく一番訪れてみたい都市として描かれている。
 
娯楽大作としても、現在のアメリカを知る上でも、そしてアレキサンダーという歴史上でも屈指のコスモポリタン(今から2300年も前のギリシャ人と野蛮人の二つしかないと本当に信じていたギリシャ人が黒人の女性を妻に娶ることなど、当時の常識を逸脱している)の人生をたどるという意味でも、間違いなくおススメの大作である。
 

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2005年02月09日

映画"シルヴィアー”カミーユ・クローデル、フリーダ・カーロとの類似性”ー

シルヴィア今年の抱負は最初に掲げたように私生活の充実子供の頃から映画鑑賞が趣味で、大学時代は映画評論家になるのが夢でした。去年は月1度ぐらいしか映画を見れませんでしたが、今年は週1回が目標最近見たシルヴィアについて評論したいと思います。
 
シルヴィア・プラス(1932−1963)は20世紀後半のアメリカ出身、イギリスで活躍した詩人、夫の浮気などに悩み苦しみ、オーブンに頭を突っ込みガス自殺を遂げます。彼女は死後に夫のテッド・ヒューズにより出版された詩集で、栄誉あるピューリツァー賞を受賞します。その劇的な生涯により欧米では女性の圧倒的な支持を受けているそうですが、彼女の生き方は天才芸術家としては珍しくない、破滅的一生といえましょう。
 
シルヴィアはハーバード、エールなどの米国東部私立名門大学、いわゆるアイビーリーグ(7校、実際は8校)に対して設立された東部私立名門女子大、セブンシスターズの一つスミス・カレッジ(1950-55)出身です。余談ですが昨年公開されたジュリア・ロバーツ主演の”モナリザスマイル”は63年のウェーズリー・カレッジというやはりセブンシスターズの一つを舞台にした物語で、多少時代は下りますが、シルビアが暮らしたセブンシスターズのイメージがつかめるでしょう。
 
非常に美人で、しかも才気にあふれたシルヴィアがアイビーリーグの名門大学の子弟に人気があったのは想像に難くありません。フルブライト留学制度でイギリスのケンブリッジ大学に55年留学し、テッド・ヒューズと出会うことで彼女の人生の歯車が狂い始めます。テッドの詩を読んだ彼女は出会う前からテッドに恋したのかもしれません、なぜなら詩は彼女にとっては人生のすべてでしたから。そして、人生で初めて自分が認められる男性に出会ったわけですから。
 
映画でも、出合った翌年56年にボストンに二人が戻り、初めてテッドを紹介されたシルヴィアの母親が、不安感を抱くシーンが描かれます。それまでのシルビヴィアが出合った男性は、ハーバードだろうとエールだろうと、彼女が優位に立てたわけです。彼女の大切とする詩においては、彼女がまさっているわけで、彼女は彼らにそれほどの魅力を感じない、反対に彼らにとって、ただきれいなだけでなく、才気にあふれ、既に多くの詩を発表し詩人としても認められていた彼女は、脅威でした。だから、母親もコントロールするのはシルヴィアのほうであるため、安心感を抱いていたわけです。しかし、詩においてもシルヴィアに勝り、さらに女性に人気のある風貌、雰囲気、声を備えたテッドを紹介され、母親は、コントロールするのはシルヴィアではなく、テッドだと悟り、彼に頼みます”いつでもシルビアに優しくしてくれ”と。しかし、その約束は破られます。女性がどこに行ってもテッドをほっておかなかったからです
 
ここでの不幸はシルヴィアが純粋であるために、テッドの浮気を許せなかったことです。さらに人一倍感受性の豊かな彼女は夫の浮気に気づいてしまいます。その結果、大喧嘩、別れにつながるわけです。ここで普通の女性でしたら自分も浮気をしようとなるかもしれません。映画ではシルヴィアもそれを試みます、テッド、シルヴィア共通の友人である編集者にその申し出は断れます。しかし、実際そうなったとしても、彼との愛人関係は長くは続くはずがありません。テッドが彼女にとって唯一の恋人だからです
 
この自分にとってかけがえのないもの、シルヴィアにとっては詩ですが、そこでの自分より優れた人を単に尊敬するのではなく、愛情と一緒にしてしまうのが天才女性芸術家に共通する悲劇といえましょうシルヴィアが映画の中でテッドに復縁を申し出、愛し合うシーンが出てきますが、そこで彼女はテッドに会うまで自分は半分だった、テッドに会えて初めて一つになれた、二人でいないとまた半分になってしまうとテッドに語っています。彼女にとって男性はテッド以外ありえないのです。残念ながらテッドにとってはシルヴィアは少なくとも肉体的には大勢のうちの一人なのですが
 
カミーユ・クローデルにとっては、唯一の男性はロダンでした。彫刻家として彼女が自分より優れていると唯一認めているのが、ロダンだからです。カミーユは豊かな家に生まれ、美しく、彫刻家としてもすぐれていたので、20歳も年上で、愛人もいるロダンを男性として選ぶ必要などまるでないというのが我々凡人の考えです。ましてロダンと別れたからといって、気が狂う必要があるのでしょうか?天才と狂人は紙一重といいますが、やはり天才であるゆえにカミーユのように気が狂ったり、シルヴィアのように自殺することになるわけです。こうした美しい女性芸術家が、自分の芸術の分野で自分よりも優れた人を唯一の愛情対象にしてしまう他の例としては、フリーダ・カーロのディエゴ・リベラへの愛も有名でしょう。
 
テッドはシルヴィアを、ロダンはカミーユを芸術家として認めていましたし、女性としても精神的に愛していました。他の女性への肉体的な愛情をシルヴィアが、カミーユが見て見ぬ振りをできれば、こうした不幸な結末には至らなかったでしょう。
 
ロダンは後にカミーユを見捨てて舞い戻った長年の伴侶ローズ・ブーレと死の直前77歳で結婚しています。やはり落ち着ける、平凡な女性がよかったのでしょうか?世の中の女性にとって言えることは、魅力的な、モテモテの男性との結婚はハイリスク・ハイリターン、肉体的な浮気をされてもローズのように見て見ぬ不振りができなければ、不幸になるということなのでしょうか?
 
精神的な愛情と肉体的な愛情との違いについてはまた他の機会に述べてみたいと思います。
 

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